歴史俯瞰 草創期 成長期 成熟期 青桐改革


歴史俯瞰 

 青桐会(父兄会)の50年の変遷を俯瞰すると、大きく4つの期間(時代)に区別することができます。最初は草創期で、次に成長期、続いて成熟期、最後が現在も続いている青桐改革期です。これらの4つの期間については別に示すことにしますが、50年間を通して関連する3つのポイントの「目的の変遷」「子弟教育と全国的規模の連繋」「大学との関係」について触れます。

1.目的の変遷(「と」から「に」へ、そして「との」へ)
 目的は青桐会会則の第2条に掲げられており、変わることがないと思われがちです。ところが、50年間で大きく3回、その時代に合った目的が制定されてきています。初めは父兄会が設立された1961年(昭和36年)の「大学と協力し学生・・・」であり、純粋に大学と協力して学生のためを願って制定されたものと思われます。次が1971年(昭和43年)の「大学に協力して学生・・・」であり、翌年から大学に財政的支援をするための父兄会による多額の建設資金積立が開始され、まさにそのことを狙った改正と想像できます。最後が、1998年(平成10年)で「大学との相互協力により学生・・・」となっており、草創期の目的に戻りながら発展を意識した改正になっています。

2.子弟教育と全国的規模の連繋
 続いて、子弟教育と全国的規模の連繋ですが、これは父兄会の設立時の理念と言って良いと思います。父兄会の設立に当たり、大学の企画委員会で子弟教育や財政援助等の課題を議論した中で、父兄会は子弟教育と全国的規模の連繋を主に行うこととなりました。この理念は現在まで継承され全国的規模の連繋としての支部があり、1963年(昭和38年)の北海道支部の設立からスタートし1972年(昭和47年)の奈良県支部の設立で47都道府県全てに支部が整い、学生を父母として応援するための全国組織として現在に至っています。もう一つの課題である財政援助は、別に後援会を設立することで決着されました。

3.大学との関係(困ったときの青桐会頼み)
 大学との関係で、青桐会が大きく係った時が3回あります。1回目は、父兄会の設立そのものであり、財政的に困窮した大学が立て直しの一環で父兄会の設立を計画しました。しかし、父兄会では対応できないほどの多額の費用を必要としていたため、下島儀貞父兄会初代会長が昔から関係していた岸信介56・57代内閣総理大臣にお願いし、初代後援会会長に就任いただきました。そして、大学の借入金の個人保証や国有林の払下げによる東松山校舎の建設等で多大の協力を得ました。
 2回目は1978年(昭和53年)頃であり、大学内紛(理事と学長の軋轢)・不正入学問題がマスコミと国会で取り上げられ、学園理事長が交代しました。その後しばらくの間、同窓会会員と父兄会OBから理事長が選出されていました。
 3回目はまさしく現在で、2010年(平成22年)の学長の突然の辞任と環境創造学部長の不正経理問題であり、2名とも学園の理事でもあるため学園・大学としての猛省が必要で、内外からスピーディーで大規模な改革を迫られています。この件で、青桐会としても支部との連絡や調整を行いました。
 ここで、池田末利5代学長による父兄会創設15周年記念誌(1979年)の挨拶文の一部を原文のまま引用し、大学のあるべき姿についてのまとめとさせていただきます。

「・・・教育は建物でなく内容であることを痛感します。新制大学の発足によって、旧制の象牙の塔式大学が開かれた大学になったことは結構でありますが、大学は就職券発売所ではありません。学問の創造的発展に寄与し、人類文化の向上に貢献するのでなければ、大学の価値はありません。そして、何よりも大切なことは、かうした目的を達成する意味からも、大学は理性的・合理的存在でなければならぬといふことで、そこには些かの不正も一点の不義も許されません。私立大学といっても、それが公共性を担ふ存在である以上、その社会的責任に於いて国・公立大学と差別はありません。さればこそ、国民の血税による国庫から、十分とはいへないまでも多額の補助金を敢て出してゐるのであります。」

草創期(準備期含む)



 草創期は、父兄会が設立された1961年(昭和36年)の下島儀貞初代会長から4代会長の解任動議が定期総会で決定され会長が途中交代した「終戦処理内閣・石河クッション時代」までの11年間で、草創の苦労の多い期間であったと思います。
 財政的に困窮した大学が立て直しを前提として、父兄会設立の2年前から大学の企画委員会で、子弟教育と財政援助等の課題を議論した中で設立が計画されました。父兄会は、一つ目の課題の子弟教育と全国的規模の連繋を主に行うことになりました。そして、全国47都道府県に支部が設立されました。大きな成果としては、1968年(昭和43年)からの数年間、学生紛争発生防止のために大学と協力し学生との対話を連日のように行い、大学総体として大きな紛争の発生を回避することができました。この期間は、在任期間が長い実力会長が中心となって父兄会を強引にリードしたため、会員間の利害の衝突もあったようです。
 もう一つの課題である財政援助は、別に後援会を設立することとし、下島儀貞初代会長が昔から関係していた岸信介56・57代内閣総理大臣にお願いし、初代後援会会長に就任いただきました。そして、大学の借入金の個人保証や国有林の払下げによる東松山校舎の建設等で多大の協力を得ました。なお、後援会は副会長に椎名悦三郎元自民党副総裁、司忠丸善社長、福田赳夫67代内閣総理大臣、その他の役員にも政財界の錚々たるメンバーが参加し、大学の基盤を作るために協力しつつ時代とともにその役割を終えて消滅しています。

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成長期



 石河三郎5代会長の時に、父兄会の目的の改正、規程類の整備、会費の大学による代理徴収を行い、1972年(昭和47年)の鈴木則幸6代会長から成長期がスタートしました。
 成長期を一言でいうと父兄会による建設資金積立の期間であり、1972年(昭和47年)からの桐朋会館建設資金(群馬県嬬恋セミナーハウス、大東文化会館)から始まり、1986年(昭和61年)の60周年図書館建設費寄付までの14年間でした。この間で集めた積立金の一部が、現在も残っている特別事業運営資金です。今から四半世紀前の父母が「幾多の困難を乗り越え汗を流して集めた寄付金であって、学生の要望に親炙した有意義な使途に当てるため保存しておくのであります。(初代会長の創設35周年記念誌での挨拶文の一部)」
 この期間では、父兄会10年史の発行(1973年)、父兄会創設15周年記念式典(1979年)、20周年記念式典(1982年)等が行われ、父兄会の5~10年単位の大きな流れの行事が定着しました。また、資金的に豊かなために群馬県嬬恋セミナーハウスと大東文化会館の管理を行う㈱大東厚生社を設立したものの、経営難で解散する不名誉な出来事もありました。
 また、大学でも大きな動きがあり、1978年(昭和53年)には大学内紛(理事長と学長の軋轢)・不正入学問題がマスコミと国会で取り上げられ、5代理事長が交代しました。そして、6代理事長が同窓会会員から選出、次の7代理事長に鈴木則幸父兄会6代会長が選出、9代理事長には下田博一父兄会初代監事が選出され、それぞれ学園経営に貢献されました。


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  • 父兄会10年史.jpg創設15年記念誌.jpg創設20周年記念誌.jpg

成熟期




 成熟期は1987年(昭和62年)の中興の祖と言われた旦光雄13代会長から2004年(平成16年)の長谷川順一25代会長までの17年間です。
 この間は、大東文化大学のブランドイメージとして「スポーツの大東」が定着した期間であり、駅伝とラグビーの黄金時代を経験しています。正月早々、箱根駅伝の応援と国立競技場で行われたラグビー大学選手権の応援の掛け持ち等、参加した父母も楽しいひと時を過ごしたことと思います。その黄金時代から既に20年の時が流れていますが、衰えたと言っても今まだ父母の間ではブランドイメージが残存しています。ですから、大学としてもこの状態を維持させながら学生の記憶にも残り続けるように、ブランドイメージの復活と発展に向けての努力を願うところです。
 また、大学のイメージアップのための要望書の提出(1987年)、学生寮・合宿所の視察(1989年)、創設30周年記念式典(1991年)、学生就職対策助成(1995年)、創設35周年記念誌の発行(1996年)、創設40周年記念式典開催・父兄会ホームページ開設(2001年)、カラー版ARCH創刊(2002年)等、現在も引き継がれている様々な事業が開始された期間でもあります。
 残念ですが、成熟期の最後の数年ではホームページの更新ストップを含めた活動が停滞したようです。しかし、成熟期の最終年の2004年は、父兄会の名称変更のための作業、震災等の被災会員への見舞、会計制度の見直し、父兄会本部にフリーダイヤルの設置及び校歌CDの作成等、積極的に動き多くの成果を残し青桐改革期の準備の年が終了しました。



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創設30周年記念誌.jpg創設30周年の歩み.jpg創設35周年記念誌.jpg創設40周年記念誌.jpg

  • 2002夏ARCH.jpg2002冬ARCH.jpg2003夏ARCH.jpg2003冬ARCH.jpg

青桐改革期



 2005年(平成17年)から青桐改革期がスタートし、さまざまな改革が行われ現在まで続いてきています。成熟期の最後の年からの3年間で青桐会の土台を作る大きな改革が行われ、名称変更、本部・支部の組織の見直し等を行うとともに、学生からの情報の収集に力を入れました。そして2006年(平成18年)に名称変更の報告を中心とした創設45周年記念式典が開催されました。
 続く3年間は課税団体から非課税団体への変更申請、予算委員会による予算積み上げと重点事業企画、就職懇談会開催費用の全支部への助成、青桐会会則・細則・内規の法体系としての確立及び体育連合会激励会開催等の実務的で着実な改革が行われました。また、2007年(平成19年)には、学業や正課外の活動で称賛に値する学生への賞である「青桐賞」が創設され、活躍された個人・団体への表彰が毎年行われています。
 その改革の最中の2010年(平成22年)からは、大学と社会で大きな出来事が起こりました。大学では、夏休み中の8月に学長が突然辞任しました。そして、年末には以前から問題とされていた環境創造学部長の不正経理問題の結論が出て懲戒処分されました。これらはマイナスの影響が大きく、大学の内外からスピーディーで大規模な改革を迫られています。この件で、青桐会としても支部との連絡や調整を行いました。
 そして、2011年3月11日に東日本大震災が発生し、青桐会会員の1割強の会員が被災しました。青桐会として東日本大震災に対する一般からの義援金の募集、総会での承認後に青桐会の予算の中から義援金寄付・被災学生等への支援・被災会員1,362家庭への災害見舞を実施してきているところです。
 なお、東日本大震災の影響で入学式が約1カ月延期されたことに連動して、青桐会の総会を定例の5月に開催することができなくなり、50年の歴史の中で初めてのことですが7月に延期し開催しました。2011年(平成23年)の本部役員の構成は女性が8人で男性が5人と、顧問と相談役の男性2名を加えたとしても、50年の歴史の中で本部役員の女性比率が初めて50%を超えた年でもあります。大東文化大学の学生を見ると、文武両面で「女子力」が注目されており、青桐会も同様に女性の時代が到来してきています。



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